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正宗敦夫氏について



正宗敦夫氏について                                      

新美哲彦(ノートルダム清心女子大学 日本語日本文学科  准教授)


 ノートルダム清心女子大学の教授であった正宗敦夫氏は、正宗白鳥の実弟で、古典籍の発掘・蒐集、古典本文の整備、注釈、研究について、多大な貢献をした人物である。

 正宗敦夫氏が蒐集し、保存に努めた数多くの貴重な典籍類は、現在、財団法人 正宗文庫とノートルダム清心女子大学附属図書館正宗敦夫文庫に収蔵されており、さらに、ノートルダム清心女子大学が購入する際に正宗敦夫氏が尽力したノートルダム清心女子大学附属図書館黒川文庫を合わせた三文庫のうち、資料的価値が特に高いと認められる典籍が、今回、『正宗敦夫収集善本叢書』として影印刊行される。

 また氏には、日本古典全集を筆頭に多数の刊行物があり、それらの刊行物の多くは、刊行後半世紀から一世紀経た今もなお、研究者に利用され続けている。これらの刊行物のいくつかは、正宗家に置かれた活版印刷機で印刷されたもので、御当主の正宗千春氏の話に拠れば、二十年ほど前までその印刷機は正宗家に置かれていたと言う。

 だが、逝去後すでに半世紀余りを経て、氏の活動・業績は埋もれつつあるように思われる。本稿では、逝去直後に刊行された『清心国文』第二号・正宗敦夫教授追悼特輯(一九五九・三)からの引用を通して、正宗敦夫氏の事跡・人柄を簡単に紹介したい。なお、引用文は、人名・書名以外、適宜、通行の字体になおした。



正宗敦夫教授年譜

明治十四年(1881)十一月十五日(但し戸籍面は三十日)岡山県和気郡伊里村穂浪三千百七番地に生る。

夙に国文学に志を立て、また作歌の道にいそしむ。

歌文珍書保存会を主宰し、古今の登籍(典籍カ)を発掘し是を江湖に頒布す。

大正大震災のあと与謝野寛、晶子に招かれ、日本古典全集の刊行をなす。

昭和二年(1927)、井上通泰博士の萬葉集新考(和装本三十八冊)を上梓し以て恩師に対する真情を致せり。

昭和六年(1931)、萬葉集総索引の出版を完了す。本書は実に敦夫が二十余年の研鑽の結晶なり。

昭和十年(1935)、財団法人正宗文庫を設立し、歌書国文学書及び郷土資料の蒐集保存に努む。(御当主の千春氏の話では昭和十一年設立とのこと)

昭和十八年(1943)、蕃山全集を編刊す。

昭和二十七年(1952)、ノートルダム清心女子大学に招かれて国文学の教授となる。

七ヶ年教鞭をとりたる後、昭和三十三年(1958)十一月十二日病没す。

正宗貞「正宗敦夫教授年譜」

 

本年譜を作成した正宗貞氏は正宗敦夫夫人。なお括弧内の西暦および注は稿者に拠る。

 正宗敦夫氏をノートルダム清心女子大学文学部国文学科(現・日本語日本文学科)に招聘した、初代学科長で、京都大学名誉教授の澤瀉久孝氏は、招聘理由と、その後体調により辞意を漏らしていた正宗氏を引き留めた理由について以下のように述べる。

 正宗先生をこちらへお招きした時には、その昔京都大学の文科が創設せられた折、作家幸田露伴、朝日新聞記者内藤湖南、などの人達を教授に招聘したにも似た気持ちであつた。所謂学歴や教職の経歴のない民間の学者を大学教授に迎へる事は当時として異例であつたが、それによつて京大文科は東大に対して独自清新の学風を樹立する事が出来た。そのやうにと私は考へたので、まず講師にといふ先例を破つて、正宗先生は文部省当局に進言してはじめから教授に迎へる事が出来た。


(中略)

 既に先生は二三年前から度々辞意をもらされてゐたが、私はその度にお引きとめしてゐた。おからだの御都合でいくらお休み下すつてもかまはないからおやめにはならないで下さいと私は云ひ云ひしてゐた。大学といふところは学問の研究をするところ、少くもその研究の道を学ぶところであつて、従つて教授自身が学問の研究に打込んでをり、学生はその業績の片鱗に触れる事が出来れば足るのである。中学や高校とは違つて、毎週毎日きまつた時間にきまつた授業をされても、先生自身に学道精進の実が無ければ、大学教授とは云へないのである。そういふ意味で正宗先生の如き碩学はたとへ月に一度その姿を見せられるだけでもありがたい事だと私は考へてゐたのである。

澤瀉久孝「正宗先生の学恩」


 

また、京都帝国大学図書館に長く勤め、関西の書誌学の開拓者とも称される、当時のノートルダム清心女子大学国文科教授、鈴鹿三七氏は、正宗敦夫氏の思い出を以下のように語る。

 昭和二十七年四月から本大学に国文科を創設する事となり、澤瀉先生がその組織を担当され、私に就任を勧められた。私は未だ嘗て京都以外に出た事が無いので、やや躊躇したが、正宗先生も来られると聞いたので、私は正宗先生に度々会へる嬉しさに、ここへ参ることになつたのである。過去七年同僚として相勤め月々学校で半日の快談を交すことがお互に楽しみであつた。

鈴鹿三七「正宗先生を憶ふ」


 なお鈴鹿三七氏は、国学者鈴鹿連胤の曾孫で、連胤旧蔵・鈴鹿本『今昔物語集』の学界への紹介者でもあり、自身も古典籍の蒐集家として著名な人物である。

 正宗敦夫の容姿・人柄については、当時同僚であった金井寅之助氏、教え子であり助手の社宏子氏が以下のように述べる。

 正宗先生

 先月十六日には大学で講義なさいましたのに、こんなに早くお別れするやうにならうとは誰が予期したでございませうか。眼と眉との人なみはづれて隔たつておられたいつくしみ深いお顔を、もはや研究室でお見うけできないと思ひますといひやうのない悲しさでございます。(中略)

 研究室での私どもとのお話は、めづらしい古典籍を手に入れたよろこび、注釈作業のむつかしさ、体裁とへつらひにあけくれする世の人心へのなげきでございました。現実的に、ものの本質さへつかみさへすればよいではないか。体裁などは要らないではないか。是が先生の平素のお考への根本であつたと思ひます。そしてまた私どもの大いに共鳴したところでございました。お服装もまたこの考へにもとづいてゐました。ハイキング帽子、モンペ、地下足袋、信玄袋。老人には転ばないために地下足袋が一番便利だといはれたこと、初めは乗り物の、のりおりのためと思つてをりましたが、お宅へ伺つて、中央のへこんだ、石ころの多い坂道を歩いて、なるほどと思ひあたつたことでございました。この現実的に、ものの本質をつかむ精神は、御著述の中にも流れてゐるのを感じます。先生独特の風格のあるお歌にもまたこの精神の流れてゐるのを感じます。

金井寅之助「み柩の前にて」



「あんたらのことも天国からはどうにもしてやれん。死人に口なしじや。」と最後にお会いしたとき笑つておつしやいました。それもそうですが先生、天国でもし読書していらつしやるのならそのあいまに、先生の気持を散らさない程度の助力をお願いします。「しらん」とおつしやいますな。(中略)

 先生、今私のこうして眺めている四号室の窓には、暖かい日光がふり注いでいます。この風景がはるかに先生のお眼にも達することと信じております。先生のお声も聞こえるようです。先生、さようなら。

社宏子「窓」


 

私はもちろん、正宗敦夫氏と面識はない。だが、これらの引用文からだけでも、飄々としつつも、本質にこだわる篤学の姿が浮かんでこよう。また、いわゆる学歴、教歴もなく、兄・正宗白鳥が東京を中心に活動したのとは異なり、備前市穂浪を終の棲家と定め、古典籍を蒐集し、家に印刷機までそなえて、多大な業績を倦むことなく世に送り出し、さらによき教育者としての顔をも併せ持つ正宗敦夫氏の姿自体、澤瀉久孝初代学科長の見識とともに、近代日本の「発展」および現在の高等教育に対する痛烈な批判である。

 正宗敦夫氏の業績の再検討、活動の再評価が行われるべき時が来ているのではないだろうか。


※上記解説の無断転載を固く禁じます

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